非常識な法理?ー責任能力ー

法の世界では、理論上認められる基本原則や法理(以下「法理」)といったものがいくつもあります。
具体的な条文として現れている場合もあれば、そうでない場合もあります。
法律科目の授業で、具体的な法律の解釈に先立って教えられる(刷り込まれる?)ものも多く、(特に法学部出身の)法律家は、こうした法理を当然のものとして受け容れています。

ところが、こうした法理には、一般の方(法学を学んでいない方)には、すこぶる評判が悪いと思われるものがあります。

その典型は、刑法で登場する責任能力の制度、刑事訴訟法で登場する違法集証拠排除法則でしょう。いずれも、刑事事件の被疑者・被告人を刑事責任から免れさせる方向に働く法理です。

今回は、責任主義について論じたいと思います。

【責任主義】

刑法における責任主義とは、最大公約数的に言えば、行為者に「責任」がなければ刑罰を科すことはできない、とする法理です。これにより、結果責任や連帯責任(連座制)が否定されます。

責任主義における「責任」とは、その違法行為を行ったことについて非難できること、をいうとされています。

そして、一般に、非難できるというためには、当該違法行為ではなく他の適法行為に出ることができたこと(他行為可能性)が必要である、とされています。

こうして、「責任」を認めるためには、故意過失責任能力などが必要とされています。

より詳しく説明すると、一般的には、当該違法行為ではなく他の適法行為に出ることができたといえるためには、次の3つが必要とされています。

  1. 自分の行為とその結果を認識し又は予見できること
  2. 認識し又は予見できた行為や結果が、犯罪に該当すること(違法であること)を認識できること
  3. 2の認識に動機付けられて犯行を思い止まることができること

1から故意や過失が、2から違法性の意識の可能性と後述の責任能力のうちの弁識能力が、3から責任能力のうちの制御能力と適法行為の期待可能性が導かれるとされます(※1)。

※1 細かい話ですが、学説では、故意や過失を責任主義から導く、つまり責任を基礎づける要素(責任要素)とするのではなく、もっぱら行為の違法性を基礎づける要素(違法要素)とする見解もあります。ただし、この見解も、故意や過失がなければ他行為可能性が認められないことを否定するわけではありません。
違法性の意識の可能性と適法行為の期待可能性は、いずれも刑法に明文の規定はありませんが、理論上犯罪成立に必要な要素であると考えられています。
違法性の意識の可能性とは、自分の行為が違法であることを認識できる可能性をいいます。例えば、公的機関から適法だとお墨付きをもらっていたために自分の行為が違法であると認識できなかった場合には、違法性の意識の可能性がないとされます。映倫管理委員会の審査に通ったため、「わいせつ図画」に当たらないと思ってわいせつな映画を上映したケースで、無罪とした高裁判例(ただし、故意を否定)があります。
適法行為の期待可能性とは、強要や義務の衝突等のために、他の適法行為に出ることを期待できないことをいいます。

故意や過失がない場合に犯罪の成立を認めることができないことについては、一般の方にも異論はないでしょう。

例えば、交通事故の例で、A車が、青信号の交差点を右折するため、適時に右ウインカーを点灯させ、対向車線の直進車(B車)とは十分な距離があることを確認した上で、青信号のまま右折しようとしたら、B車が制限速度が時速50㎞なのに時速120㎞で走行しており一瞬で交差点に進入したため、A車とB車が衝突し、Bのみが死亡したとしましょう(なお、単純化のため、B車は一般の四輪車で警察車両や緊急車両でなかったとします)。通常、Aがそのような高速度で進行してくることは認識もしていなかったし(故意がない)、予見もできなかった(過失がない)として、犯罪(殺人罪や過失運転致死罪)は成立しないと考えるでしょう。

おそらく、自分も加害者になる可能性がある、という認識があるからではないでしょうか。
自分もこうした事案で加害者になる可能性があり、その場合処罰されるのは納得できない、という想像が容易だからではないか、ということです。

【責任能力とは】

ところが、責任能力の場合には、事情は大きく異なります。

刑法39条は、次のように定めています。

  1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
  2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

心神喪失とは、精神障害により、弁識能力と制御能力のいずれかの能力がない場合をいい、心神耗弱とは、精神障害により、是非弁識能力と行動制御能力のいずれかの能力が著しく減退していた場合をいいます。 

弁識能力とは、行為の違法性を弁識する能力をいい、制御能力とは、この弁識に従って行動を制御する能力をいいます。

責任能力は、弁識能力と制御能力から構成され、心神喪失の場合を責任無能力、心神耗弱の場合を限定責任能力といいます。

いくら重大犯罪を犯しても、精神上の障害により、自分の行為が違法であることを認識できない、あるいは認識できても行動を制御できない場合(心神喪失)には無罪となり、違法であるとの認識やそれによる行動制御が著しく困難な場合(心神耗弱)には必ず減刑される、ということです。

なお、精神障害には、統合失調症・躁鬱病などの精神病、病的酩酊・複雑酩酊・激情状態等の意識障害、知的障害等の精神の変性などがあるとされています。

心神喪失を理由に無罪判決がなされた最近の例として、神戸市内で、いずれも殺意をもって、家族と近隣住民併せて計5人を文化包丁で刺すなどして殺傷したとして殺人等で起訴された事件があります。
一審の神戸地裁は、犯行当時、被告人は重度の統合失調症に罹患しており、哲学的ゾンビ(人間と全く同じ姿形をしており,人間と全く同じ振る舞いをするが、自我や感情のない存在を意味する哲学用語)を倒せば好意を寄せる女性が結婚してくれるといった妄想等の圧倒的な支配下で犯行に及んだ疑いがあるとして、心神喪失により無罪としました(2021.11.4)。
検察官が控訴しましたが、大阪高裁は控訴を棄却しました(2023.9.25)。
検察官は上告せず、無罪判決が確定しました。
確定後、検察官は、神戸地裁に、後述の心神喪失者等医療観察法に基づく申立てを行ったようです。

なお、14才未満の年少者は、責任能力がないとされ、犯罪をしても無罪となります(刑法41条)。14才未満であれば一般的・類型的に上記の弁識能力と制御能力が欠けているというわけではなく、年少者の可塑性(更生可能性)などの刑事政策的理由によるものです。

【なぜ責任能力を犯罪成立要件とすることには異論が強いのか】

故意や過失と責任能力とでは事情が異なるというのは、刑事裁判で被告人が責任無能力だったとして弁護人が無罪を主張したとのネットニュースがあると、(私の見る限り)常に、その事案で責任能力を否定するのはおかしい、という趣旨ではなく、そもそも責任無能力を理由に無罪とするのはおかしい(不合理だ)、という趣旨のコメントが多数見られるからです。これらのコメントの主が刑法39条の存在を知らない可能性も十分あるのですが、はっきりと刑法39条をなくすべきだとの書き込みもあります。

(これも私の見る限り、ですが)交通事故のニュースの場合には、この事案で運転手が刑事責任を問われるのは酷だという意見もあったりして、有罪無罪の意見が分かれるのとは対照的です。

いくつかの理由が考えられます。

【自分は加害者にならない】

責任能力が問題となる事案では、傷害、殺人、放火の事案が多いこともあって、多くの人は、自分が被害者の立場に立つことはあっても、加害者の立場に立つことはない、という認識があるのかもしれません。
こうした事案で自分が加害者だったら処罰されることに納得できるだろうか、という想像をしないのではないか、ということです。

【被害者が報われない】

ネットニュースの書き込みには、おそらく刑罰を国家が被害者の復讐を代行する(応報感情を充足させる)ものとの理解を前提として、責任無能力の場合であっても、犯人が処罰されなければ被害者が報われない、という趣旨と理解できるものもあります。

これに対しては、刑罰の目的は、犯罪の予防・抑止という公的な利益の実現にあるという主張が対立します(刑法学ではこちらが一般的です)。ただし、行為者に責任がない場合には応報感情も生じないはずとの指摘もされています。

【精神障害仮装の危険】

書き込みには、責任無能力の場合に犯罪が成立しないのであれば、実際はそうでないのに、処罰を免れるために精神障害を装う人が出てくる、というものもあります。

確かにその可能性は否定できませんが、虚偽の弁解の可能性は、どのような犯罪成立要件についても生じうるものなので、責任無能力だけそれから除外することはできないでしょう。
例えば、正当防衛という制度(刑法36条)には誰も異論がないと思いますが、被害者から殴りかかってきたので自分の身を守るために反撃した、だから正当防衛だ、という虚偽の弁解をする人がいるからといって、正当防衛の制度をなくすべきだとは考えないでしょう。

【社会から隔離すべき】

書き込みには、精神上の障害により責任能力が十分に認められない人は、いつ犯罪に及ぶかわからないのだから、社会から隔離すべきだ、という趣旨と理解できるものもあります。

これには、偏見ではないかとの疑問を措くとしても、その人に対する治療や支援を必要とする理由にはなっても、刑罰を科す理由にはならない、という反論が可能です。
この治療や支援を実現するものとして、心神喪失者等医療観察法(正式には「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」)があります。殺人、傷害、放火等の重大な他害行為を行ったが、心神喪失又は心神耗弱と判断され、不起訴となったり、無罪判決や執行猶予判決を受けた者に対し、裁判所が入通院を命じる制度などが定められています。

慎重さの不足への非難

精神障害により他人を害する可能性がある人は、もっと慎重に生活すべきだった、との趣旨と思われるコメントもあります。

もしかすると、他人を害する行為に及んだ時点ではなく、その前の時点での慎重さの欠如を問題にしているのかもしれません。
これは、刑法学で「原因において自由な行為」として議論されている問題です。例えば多量に飲酒すると病的酩酊に陥り他人に暴行しがちであることがわかっている人が多量に飲酒をして、実際に病的酩酊による心神喪失になって他人に暴行してしまった、という場合です。この場合、暴行自体ではなく、多量に飲酒したことを対象に処罰することは可能と解されています。

【責任主義は憲法の要請である】

責任能力の要件を含む責任主義は、憲法の要請だと考えられています(13条の「個人の尊厳」又は31条の「適正手続」)。
つまり、刑法39条を削除すると憲法違反になるということです。

【責任主義の根拠】

責任能力を犯罪成立要件とすることが憲法上の要請というなら、憲法を改正すべき、という方もおられるかもしれません。

しかし、責任主義を認めつつ、責任能力の制度だけを否定することが、一貫した理屈で説明できるか、は甚だ疑問です。

そこで、責任主義の根拠を考えてみたいと思います。

学説上、いくつかの説明があります。相互排他的ではありません。

  1. 他行為可能性がない行為を処罰すると、人々の行動が過度に萎縮させられ、自由制約の程度が大きい(※2)。
  2. 刑罰の目的は犯罪の抑止であるが、その抑止のメカニズムは、犯罪の内容とそれに対する刑罰を予告した上(罪刑法定主義)、実際に犯罪が行われた場合にこれを悪い見本として予告通り刑罰を科すことにより、将来同様の状況に置かれた人に犯行を思い止まらせようとするものである(※3)。他行為可能性がない場合、悪い見本として刑罰を科す必要がない(※4)。
  3. 刑罰を典型とする制裁は、①自分の行為と結果を認識・予見し、②それが禁止の対象(犯罪)に該当することを認識し、③この認識に動機付づけられて禁止行為(犯行)を思い止まる、というプロセスで禁止行為を抑止しようとするものであるから、このプロセスを辿ることができない人は抑止・制裁の対象外である。
  4. 刑罰は、単なる不利益ではなく、「非難」の意味が込められた制裁(応報)である(※5)。他行為可能性がなければ非難できない。
  5. 規範意識を働かせることで犯行を思い止まることができた場合(他行為可能性がある場合)にのみ処罰されることで、国民の規範意識が維持・強化される。他行為可能性がないのに処罰されると、かえって国民の規範意識が弱化する。
  6. 刑罰は、行為者から見れば、犯罪予防という社会的目的のための手段として扱われ、特別の犠牲を強いられるという面がある。そのため、刑罰は、被害者や国民一般のみならず、行為者にとっても納得可能なものでなければならない。他行為可能性がないのに特別犠牲を強いることは個人の尊重の理念(憲法13条)に反する。

納得できるものはあったでしょうか(※6)?

※2 ただし、故意や過失を念頭に置いた説明です。交通事故で考えれば、避けようがなかったのに処罰されるならば、自動車の運転をしなくなる人が増え、あるいは過度に慎重になり、経済活動が停滞することにもなるでしょう。ミスとも言えないミスを理由に医師を業務上過失致死罪で処罰すると、医師がいなくなってしまい、かえって適切な医療が提供されなくなる、ということもあり得ます。産科医が業務上過失致死罪で起訴された福島県立大野病院事件では、結果的に無罪となりましたが、起訴後、福島県内の産科医が減少した(県外に転出したか婦人科に転科した)と言われています。
※3 刑罰は、物理的に犯罪を阻止しようとするのではなく、人の意識に働きかけて犯行を思い止まらせようとするものです。どのようにして人の意識に働きかけるのかについては、恐怖心や功利計算(損得勘定)に訴えかけると考える消極的一般予防と、(他人の者を盗んではならないといった)規範がちゃんと存在することを示し、人々の規範意識(遵法精神)を維持・強化すると考える積極的一般予防があります。簡単に言うと、前者は「処罰されるのは嫌だから万引を止めよう」と思わせようとし、後者は「やっぱり万引はしてはいけないことだから万引を止めよう」と思わせようとする、ということです。前者は行動心理学でいう外発的動機付け(外部からの働き掛けによる動機付け・インセンティブ)、前者は内発的動機付け(人の内面に起因する動機付け)に概ね対応しているかもしれません。
※4 責任がないとなぜ悪い見本として刑罰を科す必要がないかについては、①
刑罰は、その予告とそれが空脅しでないことを示す現実の処罰により、将来同様の状況に置かれた人に犯行を思い止まらせようとするものであるが、責任がない人は刑罰予告に応じて犯行を思い止まることができないのであるから、責任がない人に対する処罰は、その人と同様の状況に置かれた人(責任がない人)の犯行抑止に役立たない、②行為者に責任がない場合、人々はそれと同じ犯行をしても構わないのだとは思わない(規範意識は弱化しない)、といった説明があります。①は消極的一般予防と、②は積極的一般予防と親和的です。
※5 ある行為の抑止を目的とする不利益であっても、課税(例えば環境税)は非難の性質を持ちません。犯罪が行われたときに再犯を防止するために科される保安処分(精神病院への収容処分など)も、非難としての性格を持ちません。
※6 難しい話ですが、「他行為可能性」については、証明不可能であるとの批判があります。ただし、他行為可能性を前提としなくても、消極的一般予防の立場から、刑罰予告と実際の処罰は将来同様の状況に置かれた人にとって犯行を思い止まる動機となる可能性があり(これは完全に否定できないと考えられます)、処罰が正当化されるのはそのような可能性がある場合に限られるとして、①
自分の行為とその結果を認識し又は予見できること、②認識し又は予見できた行為や結果が、犯罪に該当すること(違法であること)を認識できること、③②の認識に動機付けられて犯行を思い止まることができること、の必要性を導くことができます。また、積極的一般予防論からは、①②③のいずれかが欠ける場合には人々の規範意識は弱化しないとして、①②③の必要性を導くことができます。

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